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「朝鮮労働党万歳!」平壌本部
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    自由民主党・團伊玖磨・金永吉

    やあおはよう。今日はまず自由民主党党歌「われら」を紹介しよう。去年私は自由民主党本部内の売店「自民党サービスセンター」で「自由民主党手帳」を買って愛用していたのだが、そこに党歌「われら」が載っていた。(画像クリックで拡大自由民主党・團伊玖磨・金永吉_a0072616_15322470.jpg

    ここ(自由民主党ホームページ)にも楽譜と歌詞が載っていて、音声ファイルも置いてある。聴いてみるとなかなか良い歌だが音質が悪いな。CD化されていないのだろうか?件の自民党サービスセンターではそれらしきものは見かけなかったが。

    「自由民主党手帳」には党歌「われら」以外にも「大地の息吹」(党青年部の歌)と「花のいのちを」(党女性局の歌)も載っている。(画像クリックで拡大
    自由民主党・團伊玖磨・金永吉_a0072616_22244745.jpg
    自由民主党・團伊玖磨・金永吉_a0072616_22252081.jpg
    画像にあるとおり、この「花のいのちを」(党女性局の歌)の作詞作曲は團伊玖磨によるものだ。團伊玖磨と言えば、昭和34(1959)年の天皇皇后両陛下御成婚を祝って「祝典行進曲」を作曲し献上したことで知られる日本を代表する作曲家である。平成5年の皇太子殿下御成婚の際にも「新・祝典行進曲」を作曲している。(画像クリックで拡大自由民主党・團伊玖磨・金永吉_a0072616_22355614.jpg
    それでこの團伊玖磨だが、意外なことに『朝鮮画報』1967年5月号に登場している。その一部を紹介しよう。自由民主党・團伊玖磨・金永吉_a0072616_2246048.jpg
    自由民主党・團伊玖磨・金永吉_a0072616_22463461.jpg  ぼくは、朝鮮の友達が多いんです。音楽家ですから・・・・・・
     高峰 昔の永田紘次郎(金永吉)さんなんか・・・・・ いま、どうしていられますか?
      帰国して、いま北におられるんですね。ぼくは軍楽隊で一緒になった。彼が軍曹でぼくは上等兵。でも、あの人だけだったんだ、人をなぐらなかったのは。怒らないんですよ。人格高潔な方です。北朝鮮へ帰られてよかったですね。
     藤島 いま、確か功勲俳優ですよ。・・・・・・じゃあ、金さんと一緒に食べたわけ?朝鮮料理は?
      それもある。とにかくぼくは朝鮮料理が大好きなんです。毎日のように食べる。これがないと死んじゃうな(笑い)。
     高峰 あたしも好きよ(笑い)。
      で、そのことを雑誌に書いたら、朝鮮料理の組合長から電話がかかってきて、そんなに好きだったらゴチソウしてあげるから来いというんで(笑い)・・・・・・。また友達が増えました。

    というわけだ。ううん、團伊玖磨は永田絃次郎について「北朝鮮へ帰られてよかったですね」などと言っているが、永田が帰国後にどうなったか知っているのだろうか?まあ知っているはずがないと言えば知っているはずがないのだが、日本一の美声と称えられた永田が帰国後あちらの公式メディア等にも登場せず、「オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたいと思います」と語っていたのに一向に音沙汰がないことにについて、何かおかしいと思わなかったのだろうか?
    ■4.「オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたい」■

     帰国者の中には、日本で成功して、自分の技術や財産で祖国の建設に尽くしたいと志す人々も少なくなかった。その中に当時日本一の美声と言われたテナー歌手金永吉(永田絃次郎)がいた。金永吉は昭和35(1960)年1月、日本人の夫人と4人の子供を連れて、帰国船のタラップからお別れに「オーソレミ」を歌って、祖国に捧げた。出発直前に、「新潟日報」の記者によるインタビューでは金永吉はこう語った。

    " 妻は日本人ですが、4人の子供とともに同行してくれることになりました。一番上の子は、上野学園大のピアノ科3年生ですが、平壌に国立音楽大学があるから心配ありません。

     両国のオペラが自由に交流できる時期は1,2年後に来ると思います。・・・オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたいと思います。"

     金永吉の帰国は総連が直接、説得したものだったという。オペラ歌手まで帰国するという宣伝効果を狙ったのだろう。

    ■5.消えた5人家族■

     金永吉は、帰国後、平壌で高級住宅と乗用車をあてがわれ、「功勲俳優」の称号を与えられた。しかし、帰国の2ヶ月後、平壌での「金永吉帰国独唱会」で早くも一悶着が起こった。党から革命歌20曲を歌うことを要求され、金永吉はこれを拒絶。さらに生活費のために出演料を党に求めた所、「ブルジョア根性」と非難された。

     やがて金永吉は地方都市の海州市に追放され、そこで大阪からの帰国者が生活苦を訴えたために、どこかに連行され、さらにその日本人妻が服毒自殺を遂げる、という事件を知って、党に抗議をする決心を固める。金永吉を先頭に約30数名の帰国者が平壌の党中央本部に抗議に押しかけた所、全員が逮捕されてしまい、金永吉はそのまま消息を絶った。

     続いて平壌音楽大学に在学していた長女は退学処分となり、しばらく平壌芸術劇場で切符売りをしていたが、やがてどこかに連行された。ついで、夫人、次女(18歳)、三女(13歳)、長男(16歳)と一人ずつ連行されて、ついには家族全員が姿を消した。

     90年以降、北朝鮮からの脱出者が急増して、帰国者たちの消息も少しずつ分かってきた。平壌市内にある勝湖里収容所で10年間収容されていた黄龍水が、91年に中国に脱出して、その証言から、金永吉が60年代の中頃から、同じ収容所の別の棟にいた事が判明した。四半世紀も、収容所暮らしを続けていた事になる。

    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog271.html より転載


    *スキャナーを動かしたついでに、「我らの誇り、限りなし」のページに韓徳銖議長の写真を貼っておいた。
    by vchangun | 2007-06-03 23:25 | その他音楽
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